これもまた過ぎ去るだろう、
という言葉は、現実への道標だ。
すべての形は無常であると示すことで、
逆に永遠をも指し示している。
あなたのなかの永遠なるもの、
それだけが無常を無常と認識できる。
エックハルト・トール著「ニューアース 」
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何一つ、変わらないものなどないと、
理性は、思考は、
そのことを理解しているように努めるのですが、
例えば嫌なことや、気にいらないこと、許せないと思うこと、
それらに直面したとき、ものの見事にとらわれてしまいます。
嫌なことは、次に同じようなことが起きると肉体的にも拒否反応が表れ、
気に入らないことは、引き起こした人々にも矛先は広がり、
許せないことは、遠い未来にまでも線路を引いて、その炎が消えないよう薪をくべます。
変わらないものは、何もない。
それは、
嫌だと思う「自分」
気に入らないと思う「自分」
許せないと思う「自分」
その「自分」のまなざしもまた、
何かの拍子にするりと色を変え、手触りを変え、景色自体を変えて、
向き合うことができるということです。
どの本だったか忘れましたが、こんなお話がありました。
二人の厳格な戒律を守るお坊さまが、行脚に出られていたとき。
前日の雨で水かさの増した川に出くわし、
向こう岸に渡れず困っていた女性と出会いました。
一人のお坊さまは、自分の荷物を頭にくくりつけ、
困っていた女性を抱きかかえて向こう岸に渡ります。
女性に触れてはいけない、という戒律を破ったと、
もう一人のお坊さまは、悶々としながら川を渡り、
悶々としながら二人で行脚を続けます。
夜。
休みながらも、悶々とするお坊さまは、もう一人のお坊さまに尋ねました。
「なぜ、あの女性を抱きかかえて川を渡ったのか」と。
すると、もう片方のお坊さまは答えました。
「なんだ、お前はまだあの女性を抱きかかえていたのか?
自分はとっくにあの女性を離しているというのに」
嫌だ嫌だと言いながら、嫌なことをそんなにたくさん「想って」いるなんて、
本当は「好き」だからなのではないですか。
嫌だ嫌だと思っている「自分」の状態を、
作り出しているのは、自分であるということ。
嫌だという刺激を通して、自分を「在る」と感じること。
例えば精神科医エリック・バーンが提唱したTA (Transactional Analysis/交流分析)の
理論の中でも、
こういった「嫌」な刺激を通して、自分自身のエゴをより強化していくのを
ラケット感情、と呼んでいます。
嫌なこと、気に入らないこと、許せないことは、
油断すれば、あちらこちらから降って湧いてきます。
あと5分、と布団に潜り、
気付けば遅刻ギリギリまで眠ってしまい、
慌てて転がるように駅に向かい、
自分の目の前で扉が閉まる・・・
走り込んだ自分が見えていたはずだと車掌を呪い、
遅刻しそうだと絶望的な気分になる。
そんなときは、つぶやいて下さい。
「これもまた過ぎ去る]
車掌を呪ったりなんかせず、
電車に乗れなかったのは自分のせいであったとリセットし、
「これもまた過ぎ去る」
つぶやいて、抱きかかえるの止めたとき。
これから滑り込んでくる電車の中に、
運命の出会いがあったり、見つかったりするかもしれません。
いいことも、
わるいことも、
それもまた、過ぎ去る。
◆チベット玉樹大地震の被災者の方々に、平穏な日々がもたらされますように◆
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