2010年4月25日日曜日

〜 それもまた、過ぎ去る 〜

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これもまた過ぎ去るだろう、


という言葉は、現実への道標だ。


すべての形は無常であると示すことで、


逆に永遠をも指し示している。


あなたのなかの永遠なるもの、


それだけが無常を無常と認識できる。


エックハルト・トール著「ニューアース 」


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何一つ、変わらないものなどないと、




理性は、思考は、




そのことを理解しているように努めるのですが、




例えば嫌なことや、気にいらないこと、許せないと思うこと、




それらに直面したとき、ものの見事にとらわれてしまいます。








嫌なことは、次に同じようなことが起きると肉体的にも拒否反応が表れ、




気に入らないことは、引き起こした人々にも矛先は広がり、




許せないことは、遠い未来にまでも線路を引いて、その炎が消えないよう薪をくべます。








変わらないものは、何もない。






それは、




嫌だと思う「自分」


気に入らないと思う「自分」


許せないと思う「自分」




その「自分」のまなざしもまた、




何かの拍子にするりと色を変え、手触りを変え、景色自体を変えて、


向き合うことができるということです。






どの本だったか忘れましたが、こんなお話がありました。




二人の厳格な戒律を守るお坊さまが、行脚に出られていたとき。


前日の雨で水かさの増した川に出くわし、


向こう岸に渡れず困っていた女性と出会いました。




一人のお坊さまは、自分の荷物を頭にくくりつけ、


困っていた女性を抱きかかえて向こう岸に渡ります。




女性に触れてはいけない、という戒律を破ったと、


もう一人のお坊さまは、悶々としながら川を渡り、


悶々としながら二人で行脚を続けます。






夜。


休みながらも、悶々とするお坊さまは、もう一人のお坊さまに尋ねました。




「なぜ、あの女性を抱きかかえて川を渡ったのか」と。


すると、もう片方のお坊さまは答えました。




「なんだ、お前はまだあの女性を抱きかかえていたのか?


 自分はとっくにあの女性を離しているというのに」






嫌だ嫌だと言いながら、嫌なことをそんなにたくさん「想って」いるなんて、




本当は「好き」だからなのではないですか。




嫌だ嫌だと思っている「自分」の状態を、


作り出しているのは、自分であるということ。




嫌だという刺激を通して、自分を「在る」と感じること。






例えば精神科医エリック・バーンが提唱したTA (Transactional Analysis/交流分析)の


理論の中でも、


こういった「嫌」な刺激を通して、自分自身のエゴをより強化していくのを


ラケット感情、と呼んでいます。






嫌なこと、気に入らないこと、許せないことは、




油断すれば、あちらこちらから降って湧いてきます。






あと5分、と布団に潜り、




気付けば遅刻ギリギリまで眠ってしまい、




慌てて転がるように駅に向かい、




自分の目の前で扉が閉まる・・・




走り込んだ自分が見えていたはずだと車掌を呪い、


遅刻しそうだと絶望的な気分になる。






そんなときは、つぶやいて下さい。




「これもまた過ぎ去る]






車掌を呪ったりなんかせず、




電車に乗れなかったのは自分のせいであったとリセットし、




「これもまた過ぎ去る」




つぶやいて、抱きかかえるの止めたとき。






これから滑り込んでくる電車の中に、




運命の出会いがあったり、見つかったりするかもしれません。






いいことも、




わるいことも、




それもまた、過ぎ去る。




















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◆チベット玉樹大地震の被災者の方々に、平穏な日々がもたらされますように◆




















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