2010年4月30日金曜日

〜 五智を配する 〜

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意(こころ)が休まり、
身体の束縛が解けたとき、
本有の一味があふれ出るとき、
そこにはシュードラもバラモンも存在しない。


ここ(身体)に聖なるヤムナーがあり、
ここに聖なるガンガーがある。
ここにプラヤーガとベナレスがあり、
ここに月と太陽がある。


こは我が放浪の地、遊行の寺、
私はここに巡礼している。


この身体ほど祝福された霊場を、
私はかつて見たことがない。


テリー・クリフォード著「チベットの精神医学」
    〜 sarahaの詩より 〜
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今日はチベットハートヨガのシリーズ7、煩悩を滅する、というテーマで、


レッスンを行っていただきました。






チベット医学の大きな主軸のひとつに、


身体の中を通る、3本の大きな脈管の存在があります。




アーユルヴェーダの流れを汲むので、重なる部分が多いのですが、


体内に無数の、その数7万2千もの霊的脈管が走っていると考えられています。




中央に走る脈管をチベット語でウマ(dbu-ma)


右の脈管をロマ(ro-ma)


左の脈管をキャンマ(rkyang-ma)といい、




中央の脈管に、左右の脈管が絡み付いているポイントをチャクラ、と捉えています。




右の脈管は熱く、太陽であり、その脈管にプラーナが流れ込むと、怒りが


左の脈管は冷たく、月であり、その脈管にプラーナが流れ込むと、妬みが生じます。






ヨガを行うことは、3つの経路を制御し、


【智慧の脈管】とも呼ばれる中央の脈管にプラーナを流し、


空性(シューニャター)を直観する、ということを目指すことが根本にあります。






今日のシリーズは、


自分の内側に五智如来を配し、


(大日如来/阿弥陀如来/宝来如来/不空成就如来/阿しゅく如来)


その位置の応じたアーサナを通して自分自身を見つめていきます。






色々なポーズがあるのですが、




身体をひねるポーズは、左右の脈管を刺激して、


とくに妬みを洗い流すというイメージがあります。




日頃から、なかなかひねるポーズは行わないので、


少し憤りやわだかまり、妬みが生じたときは、


左右の脈管にエネルギーがかたより過ぎていると捉え、


身体をひねるポーズをとると、左右のエネルギーが流れて行きます。






それぞれの如来は、煩悩や、五大元素にも対応があり、


内分泌線にも当てはめられていたりと、


とても奥深いのがチベット医学です。






レッスンの最後に、masaさんが、




「流派を超えて、自分だけのヨガをみつけること」


「自分だけの曼荼羅を、この身体に作ること」




そんな言葉を投げかけてくださいました。






絶対的な智である、大日如来の法界体性智。


正しく区別する智である、阿弥陀如来の妙観察智。


鏡のように命を映す智である、阿しゅく如来の大円境智。


平等化する智である、宝来如来の平等性智。


一切の事業を完成させる智である、不空成就如来の成所作智。








私たちの身体には、すでに如来が箇所箇所に宿り、


奇跡的な働きを積み重ねて、日々、生きているということ。






馴染みあるヨガのポーズを通して、


自己の身体に五智如来を配し、本来、宿り輝く如来に気付き、


浄め整えていく。






まだまだ学ぶことが多く、


私は私の身体と、まだこんなにも語り合えていないのだと気付かされます。






Gate    Gate    Para   Gate   




Parasan  Gatte   Bodhi  Svaha






まだこの身体を彼岸とすることができない私は、




何度もこの真言を唱えながら、




その意味するところに届く自分でありたいと思います。










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2010年4月28日水曜日

~ 拍動 ~

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「思慮のある」「思慮のない」ということばは、
心の状態がリズミックであるかないかということを意味しています。
均衡は、生命を支えている唯一の力ですが、
それはリズムによって保たれます。


呼吸は、心と体を結びつけ、心と魂を繋いでいますが、その本質は、目覚めていようと眠っていようと、絶えまなくリズムを保つことにあるのです。


呼気と吸気は時計の振子が揺れうごくようなものでしょう。
呼吸によってあらゆる力やエネルギーが維持されるといわれ、呼吸が生命のしるしであり、その本性は左右交互に流れることだといわれるとき、
これはみな、リズムが生命においてこのうえなく重要だといことを示しているのです。


ハズラト・イナーヤト・ハーン著「音の神秘
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幼いころ、


枕に顔を押し付けて眠ろうとすると、


細い唸りのような、


細かい砂粒でできた川の流れが遠くで響くような、


そんな音がずっと聞こえて眠れず、


泣いて母に訴えていました。






耳鳴りかと耳鼻科に行っても不調はなく、


仕方なく帰ってきたのを覚えています。






阪神大震災の後、少しの地震でも怖くて敏感に反応し、


それからは


座っていても波打つように揺れている感覚に幾度も襲われました。






今は、それらが何なのか、わかるようになりました。




砂粒の川の響きは、


自分自身の赤血球の流れる血流の音であったこと。




波打つのは、


自分の心臓の拍動、


押し出される血流のドクン、という一波であったこと。






心臓が押し出す血液が、ぎゅんとこめかみにまで昇る感触、


一呼吸ごとに酸素が、なんとか体中を廻ろうとしていること、


肺胞がもっと深く呼吸をしろと、わたしをせっつくこと。


静かな気配のなか、


一瞬の光のような、変化、変容。




すこしだけ、分かるようになりました。






昔は大好きだったチョコレートやお酒も、


摂取すると鎖骨のリンパが詰まる感覚になります。




白米は、糖度が高いということを、血液が教えてくれます。




疲れすぎて、自分の中に、響きではなく「リズム」が足りないと、


少しビートの強い、シンフォニックなロックを聴きたくなります。






感情のたかぶりのまま、体内に摂取するとき、


水の中に黒いインクを垂らすのか、


清い水を注いでいるのか、


少しだけ、イメージしてみます。






百薬として、摂取するのか。




意識を酩酊させ、変容させたいために摂るのか。




左の胸に手を当て、


問うてみます。






そんなことをしなくても、


拍動の一瞬、一瞬のたびに、


微細な部分で、


常に異なる状態の自分が出来上がっては、消えていきます。




思考と同じように、


血液も濁っていないだろうか。




胸の中に刻まれるのは、


命そのものに他ならず。




薄い膜の向こう側に、


今日も命が拍動しています。




ここでも、


あそこでも、


そのむこうでも。




今日もわたしは、己の拍動に揺られ、


砂粒のような川の響きを聴きながら眠ります。




生きているという確かな音に、耳を澄ませながら。

















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2010年4月27日火曜日

〜 雨の記憶 〜 

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ひとり坐(ざ)し


ひとり臥(ふ)し


ひとり遊行(ゆぎょう)して


うむことなし


ひとり自己(おのれ)をととのえ


林間(このま)にありて


心たのしむ

友松圓諦訳 【法句経 】第305番
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今、降り続く雨が、




どこから来たのかを、




静かにたどることは、






すこし黄色みを帯びた和紙の上に、




すっ 、




と一筆、墨を走らせる静けさに似ています。








この雨は、どこから来て、どこへ行くのか。






いま、降り続く雨に出逢えるのは、




いったい何年先なのか。








この雨は、




どこの川から流れこみ、




どこの海から蒸発し、




どこの土地に降り注いだ雨が、




川となって海となって雨となって、




ここに降るのか。






この雨は、遠い昔、どこかで出逢った雨ではないか。




いつぞやのわたしを濡らし、




わたしを押し流し、




わたしを沈め、




わたしを育んだ雨ではなかったか。






今日の雨は、どんな記憶を持っているのだろうと、




耳を澄ませます。






雨の記憶は、




魂の記憶に寄り添い、




どこまでもどこまでも、




美しい輪を描き続けます。






今宵の雨が、




できうるかぎりの人々にとって、




幸せな記憶に繋がりますように。

















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〜 ここに生きる意味 〜

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原因と条件によって
生じたにすぎない事物を

真実に存在するものであると
執着する意識は

仏陀によって無知と呼ばれている。

この無知から
縁起の十二支が生じるのである。


ナーガルージュナ
『空についての七十の詩』


「ダライ・ラマの仏教入門」より
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ふとしたときに流れる「音楽」のサインを、




とても大事にしています。






偶然入ったカフェで流れている音楽の「歌詞」




たまたま流れてくるラジオの曲の「歌詞」




特に洋楽の場合、




いつも敏感に耳を澄ませます。






それはその瞬間、わたしに対しての、


何らかの「サイン」のような気がするからです。




それでよいのだというサインであったり、




もっと高く保ちなさい、というサインであったり、




楽しんで、笑顔で、というサインであったり。






< Must   be   an  Angel >   というような、




なかなか日本語では伝わらないような、ダイレクトでシンプルなメッセージが、




日常から溢れてきて背中を押します。








ENIGMA  、というアーティストの曲が好きで、よく聴くのですが、




先日も、




「なぜ、私たちは生きているのか」




という理由に対し、明確な投げかけをする曲があり、身体が震えました。






ずっと聴いていたのに、その歌詞の意味が心に飛び込んでくるまでに、




長い月日がかかったことに驚かされます。






今のわたしだから、ようやく感じられたサインなのだと、改めて感じました。




未熟ですが、わたしが感じた言葉の響きを綴ります。




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◆ Out  From  The  Deep ◆




We came out from the deep 

To learn to love, to learn how to live



We came out from the deep


To avoid the mistake we made


That's why we are here !



We came out from the deep


To help and understand, but not to kill


It takes many lives till we succeed


To clear the debts of many hundreds years


That's why we are here ! 


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わたしたちは深い闇から生まれいでる


愛とは何かを学ぶために


人生とは何かを学ぶために




わたしたちは深い闇から生まれいでる


私たち人類が積み重ねてきた数多くの過ちを、再び繰り返すことがないように


だから私たちはこの世に生まれ、今ここに生きているのだ!






わたしたちは深い闇から生まれいでる


誰かを何かを殺すためでなく、助け、命の意味を理解するために




何百年もかけて重ねてきた負のカルマを浄化するまで、


何度でも転生し、浄化されるまで繰り返される




だから私たちはこの世に生まれ、今ここに生きているのだ!




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とても短い歌詞なのですが、




この歌詞に、多くのことが現されているように感じます。






何のために生まれて来たのか。




何をするために生まれて来たのか。






それらに対する、ある明確な響きを、この歌は伝えてくれます。






愛を学び、


人生とは何かを学び、




よりよき因果の種をまくべく、


再び悪いカルマを重ねないこと。






過去、幾世にも渡って重ねて来た負の行いを、


浄化しきるまで、




何度でも、


何度でも、




私たちは同じ問いを、自らに問うていかねばならないということ。






なぜ、生きているのか。






やらねばならないことが、


学ばねばならないことが、






この世にあるからです。






That's why we are here .




That's why we are here .






答えは、




風に乗って聴こえてくる歌の中にも、




こんなにもきちんと織り込まれて届きます。


















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