心それ自体には、特定の色形がない。
空(くう)なる本質を持つ心も、
あらゆる存在を映し出す水晶のように、
心自体には何の実体もなく、
またいかなる場所にも存在するとは言えない。
水晶と、それ自体に映し出される対象の色形は
切り離す事ができなく一体となっているからだ。
— ナーガルージュナ —
タルタン・トゥルク著 「夢ヨーガ 」
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阿吽、という言葉があります。
宇宙の始まりを表す 【 阿 】 あ、
宇宙の終わりを表す 【 吽 】 うん、
2対の仁王像、2対の狛犬など、
その領域を守護する存在は、
対をなして【阿】と【吽】の口の形をしています。
阿吽、このシンプルな言葉で、
宇宙の始まりと終わりを現す。
その響きの余韻と奥深さに、しばし言葉を失くします。
あほう、という言葉もあります。
今は「阿呆」と表すことが多いのですが、
私が幼い頃、父から聞いた印象深い話として、
「あほうとは、【阿】を【保つ】人のことだ」
と聞いた記憶があります。
【阿】とは、
始まりであり、
すべてに対して開いている状態。
あらゆる生命や事象に、誰よりも「開いている」人は、
しばしば「呆けている」状態に見られていたのかもしれません。
そして、
【阿吽】
この言葉を素晴らしく現している歌があります。
ボーイズソプラノグループ、Libera が歌う、
【 I am the day 】という歌です。
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〜 I am the day 〜
words & Music by Rpbert Prizeman
I am the day, soon to be born
I am the light before the morning
I am the night, that will be dawn
I am the end and the beginning
I am the alpha and omega
The night and day, the first and last
Illuminosa, immortalis
Sancta gloriosa
Illuminosa, immortalis
Sancta gloriosa
In aeterna
I am the life, soon to begin
I am the new hope in the morning
I am the darkness, soon to be light
I am the rising and the falling
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この歌を初めて聴いたとき、
雷に打たれたようになりました。
と同時に、この歌詞になにかしら救われたような心持ちになったのです。
付属の日本訳とは言葉が違いますが、
下記、私のとらえた感覚に近い言葉を綴ります。
未熟ですが、イメージとして分かち合えたらと思います。
わたしは、新しい朝を迎えようとする「日」そのものである。
わたしは、こぼれ落ちる朝の「光」そのものである。
わたしは、東の空からとばりを下ろさんとする「夜」そのものである。
そしてわたしは、
すべての「始まり」であり「終わり」、そのものである。
「わたし」という自我の認識から、
「朝」であり「光」であり、「夜」であり。
そして「始まり」であり「終わり」であるということ。
収縮と拡散、
自己の認識から、空性としてのまなざしにうつる景色が、
何度も何度も、心を打ちます。
わたしは「夜」であり「昼」であり、「最初」であり「最後」である。
まずこの線上に立つ為には、
【阿吽】の【阿】であらねばなりません。
【阿】として、すべてに開いた状態であってはじめて、
【吽】に帰結していくのです。
【阿】を保つ人でありたいと思います。
闇でさえも、「わたし」であると開いた自分でありたいのです。
その闇の向こう側から再び生まれ出づる、「その日」もまた
わたしでありたいと思うのです。
どこまでも開いた状態である「わたし」は、
一切は、怖れることなど何もなく、
ただただ、あるがままに見え、聞こえ、感じられるのだと思います。
I am the end and the beginning
私たちは、「始まり」であり「終わり」である。
自分が感じる「世界」のすべては、
すみずみまで、【阿吽】 である。
まずは、【阿】そのものでありたいと、強く強く、思います。
◆チベット玉樹大地震の被災者の方々に、平穏な日々がもたらされますように◆
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