2010年4月16日金曜日

~ 文字に宿るもの ~

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魂(たましい)によって統べられない


手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、


一つの霊がこれを統べるのでなくて、


どうして単なる線の集合が、


音と意味とを有(も)つことが出来ようか。




中島敦著「文字禍


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photo by App [Backgrounds]














もうすぐ公開の映画、「ザ・ウォーカー」が楽しみです。


人類に残された「最後の一冊の本」を巡る物語。


幼いころから少林寺拳法に触れていたので、


ブルース・リーのお弟子のダン・イノサント氏が


デンゼル・ワシントン氏のトレーニングにつき、


「美しい立ち回り」と監督が絶賛するのをぜひ見たいと思いますし、


製作陣も興味のある方々が集っています。




けれども、一番心を奪われたのは、


「 運べ 西へ その本を - 」   というキャッチコピー。






なぜ私は「本」がこれほど好きなのか。


しかも電子書籍ではなく、


紙に印刷し、装丁を施し、質量と重量のある「本」でなければならないのか。


この映画の予告編を見ているときにふと、ひらめいたものがありました。






「本」は、とても密教に似ている。




教えを乞い、門戸を叩き、灌頂を受け、学びを得る為の必要なステップは、


「読む」ことをおのずから決断しなくては、何も始まらないこと、


「本」を手にとり、1ページ1ページ、本の質量を感じながら読む作業、


それらととても近しく感じます。




また「本」が書かれている事柄は、


書き手のひらめきや霊性、感覚など、


形にないものを、「文字」として記していく作業であり。


それはまるで、


魂、もしくは意識、


そういった形のないものが宿る、この「身体」のようではありませんか。




まさにその問いを投げかける物語が、中島敦の手によって紡がれています。


文字禍


この短い短編は、とても奥深く、 


「文字」を書き記すことの意味、そこに宿る「意図」とは何かを問うています。


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そのうちに、おかしな事が起った。
一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文字が解体して、
意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。
単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、
どうしても解らなくなって来る。


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ご経験ありませんか。




私は、小学校の頃などは、


「行」というシンプルなものから、


「亠」なべぶたの部首がつく漢字などがとくに、


ふわふわと散らばり、綺麗に四方に広がっていき、


なぜそれを今まで一つのまとまりと見えていたのか、


もうどうしようもなくなるときがありました。




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それと同じような現象が、
文字以外のあらゆるものについても起るようになった。
彼が一軒の家をじっと見ている中(うち)に、
その家は、彼の眼と頭の中で、
木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。
人間の身体を見ても、その通り。
みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。
どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、
すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。


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おぉ、如何にいわんや!




この状況は、内なる振動がゆっくりとゆっくりと「止」に向かい、


たとえば赤血球の流れる音や、


自分の拍動の震えや、


一瞬という感覚が何倍も長くなり、




それは「ゾーン」と呼ばれるような色合いの世界でもあり、


ここから一気に振動数を上げ、


日常のさらに上、


無意識に「私である」として留め、ブレーキをかけている振動数を、


より高め、はるかに超えていくことが、


今多く唱えられているアセンション、次元上昇などの意味するところとつながっていく・・




そんなふうに、感じています。




本のデジタル化は、今の変換期に必要な流れなのかもしれません。


「文字」の持つ、エネルギーや意図を純粋にすくい取る作業のように感じます。




ただ、この重い質量の肉体を持つ私たちは、


得てして遠回りとも思えるような道のり・・瞑想や修行を通して、


肉体のチャンネルを変え、開き、


それらの純粋な響きに耳を澄ますという作業が必要になります。




なぜなら、この「肉体」をもって、「今ここ」に、在るからです。




デジタル書籍は、スピード感があります。


「読む」のではなく、「スキャン」のイメージです。






けれども、一日何度も真言を唱える作業に、霊性を見出さない人はいません。






「書き記し」たものが質量を伴って「在る」ということ。


本の存在自体が、とてもとても、ひとつの答えのように思えます。






今日、東京は冷たい雨。


本当は、「雨」から、「水」というエネルギーをチベットの書物を通して、


皆さまとともに紐解いてゆこうと思っていたのですが。




どうしたことか、「本」から「文字」についてを長く書き記してしまいました。




これも、「文字に宿る霊」の、導きなのかもしれません。




文字に宿る、というもので最後にもうひとつ。




夢枕獏さんの最初の「陰陽師」の中の短編、「梔子の女」。


これは、クチナシの花と「口無し」をかけています。


このお話も、「文字に宿る魂」の物語、般若心経がテーマです。


シンプルですが、同じ問いを語りかけてくれます。




一文字一文字に宿る魂が合わさってひとつの本となり、


その扉を開いたものに、深々と語りかけてくる。






60兆個もの細胞からなる、魂をもった私たちは、


どのような言葉を、


どんなふうにして、


どなたに、語りかけていきましょうか。






願わくば、その物語が、どうぞ美しいものでありますように。




そして私たちが、


過去の叡智を今在らんものとして、ともに歩んでいけますように。















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◆チベット玉樹大地震の被災者の方々に、平穏な日々がもたらされますように◆
 
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