2011年1月13日木曜日

『 払い清めるための音 -- 警蹕(ケイヒツ) -- 』

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超越した智慧のマントラ

深い洞察のマントラ

無比のマントラ  

無上のマントラ

あらゆる苦しみを鎮めるマントラを真実と知るべし

そこに何の偽りもなきがゆえに

<般若心経「大いなる呪文」について>

チョギャム・トゥルンパ著 『タントラへの道』
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元旦の早朝に、春日大社の神事を撮影したドキュメント、

『 春日大社 祈りの記録 』 という番組がありました。



大阪の近鉄沿線で育ったので、京都よりも奈良を馴染みとして育ちましたが、

春日大社さまに詣でる機会がほとんどありませんでした。

石切神社と生駒の宝山寺に生まれたときからよく詣でました)


この春日大社の神事のドキュメンタリーが大変素晴らしく、

新年元日から、

普段目にすることができない貴重な神事に触れることができました。



その中で、とてもとても心動かされた光景がありました。


神体山である「御蓋山(みかさやま)」に登り、

御祭神に御供物を捧げる神事のときに、

扉を開ける際、

「オォー」「オォー」

という声を、神職の皆々様が発せられていたのです。


また、春日若宮おん祭という、

神様に街までお越しいただき、

五穀豊穣、万民安楽を祈願するお祭りの中で、


御神霊を移す儀として、

神職の皆々様が手に手に榊を掲げ、御神霊をお隠しになり、


その前を2本の大きな松明を引きずって火の道を通り、

(まるで夜の飛行機の滑走路のようです)

口々に、

「オォー」「オォー」

という声を途切れることなく発しながら、

1km余りの道中を進んでいかれたのです。



その、神職の方々が発せられる「オォー」という声を、

< 警蹕(ケイヒツ)  >

と呼ぶそうです。


御神霊のおられるすぐ前の扉の開閉時、


御神霊の降りてこられるとき、お戻りになられるときに発せられる声です。


貴人が道を行くときの先祓いの声、

御神霊が渡御されるときにあたりを祓い潔めるための声なのです。




幾人もの神職の方々の声が響く、

「オォー」「オォー」

という声は、



聖音としてのAUMと同じ響きであり、

山々に木霊す音はまるで自然の風鳴り、地鳴りの音のようであり、

ホーミーのようであり、

シンギングボウルの倍音の音色のようなのです。



「オォー」という声で、

あたりを払い清め、

かつその瞬間、

まぎれもなく「神」が降臨しているということを表わす音・・・。



なんと奥深く、

なんと畏ろしく、

なんと生々しく、

なんと神々しい音でしょうか。



榊で覆い隠された向こうには、

人智の計り知れぬ存在の神が、

確かに榊の向こうに「存在」すると言わしめる音。



山々に木霊す「オ」もしくは「ヲ」という言霊は、

原初の音霊として共振し、

「神」という存在のバイブレーションを作り上げていきます。



振動そのものが、

存在そのものであるということを、改めて考えさせられます。


そんなことを思っていると、

昨日は偶然にも、同じ近鉄沿線の、

河内国一之宮 枚岡神社にて粥占神事が行われたというニュースが。



他界した祖母と詣でた記憶がまざまざとよみがえり、

そろそろ梅林の美しい季節であるなと、

祖母のことを振り返っておりました。


春日大社と枚岡神社、共通の御祭神は、

【 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 】であり、春日権現とも呼ばれます。


天の岩戸の前で、祝詞をあげられたことから、

神事を司る神と崇められています。


言葉。

音。

響き。


その微細な微細な振動、エネルギーによって、

波紋を広げていく作業。


突き詰めていくと、

思考、思念の発する微細なエネルギーであり、


究極の形は、

「祈り」


祈るだけでは何もならないではないかと、

僧職につく父に、強い言葉を投げかけたことがあります。


けれど、その時でさえ、

すべては「祈り」にたどり着くのだと感じている自分がおりました。


神が降臨することを表わし、

それゆえ払い清めるための音。


その音は、

耳を澄ませば、

私たちの胎内から震え、満ち、どこまでも響きわたっています。


『 オォー・・・ 』


『 オォー・・・ 』


心臓の鼓動から。

流れる血液の中から。

小腸の揺れる絨毛の隙間から。

吐く息と吸う息の奥底から。


聖なる音が、

満ち満ちています。


今も。

今も。


私たちは、

その存在とする微細な振動を、どこまで払い清めていけるでしょうか。


神が降臨する、と表わすものは、

まぎれもなく人が発する声でした。








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2011年1月11日火曜日

『 日常を非日常で洗うということ 』


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いうまでもなく、究極的には、

「他人」など存在しません。

私たちが会っているのは常に、

「自分自身」なのですから。


世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え

エックハルト・トール著
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明けましておめでとうございます。


2011年も11日を過ぎました。


「ケ」と「ハレ」の区切りを上手く付けることで、

人は昔から日常に堆積する「垢」を、

非日常に身を投じることで、払拭してきました。



常に、不変と流転が入り混じりながら、

時間という軸を滑らかに移動している日々の中に、

いかにして「ケ」と「ハレ」を見出していくか。


それらを味わい尽くすことができるか。


そんなことを感じる新年です。



個人的に、

年末で、日常を繋ぎとめていた環境がガラリと変わりました。

今は空白、

どこまでも自由に足をのばせる冬の草原に、

一人立っているような感覚です。


一連の変化はあまりに急で、

今も自我がその変化に付いていけていない部分があります。


自分の誕生日であるグレゴリオ暦11月17日に、

「天命は何か」とふいに喉元に突きつけられ、


その約10日後、

偶然にもマヤ暦での誕生日に「離れる」という流れが決定し、

12月の晦日を迎えるまでに、

とりあえずの荷物をまとめて旅立つ、という、

火急を要する変化に飲まれました。


その時はまるで、エリザベス・キューブラーロスの「死の五段階」のように、

さまざまな感情が入り乱れ、

けれど魂の奥底で、

「助かった」

という響きが、木霊していたのも確かでした。


今回の出来事で、つくづくと感じたことがあります。


「離れることの美しさ」


この世には「離れることの美しさ」があり、

それはどこまでも完全で完璧な流れであり、

天からのギフトであり、

どのような形で立ち現われても、

すべからく、本質は美しい。


そのことに、自我を超えて受容し、享受し、

委ねることができるか。


そんなことを、学んだ出来事でした。



私の成すべきことは何か。

何を成すために生まれてきたのか。


天命とも使命とも呼べるようなものに、

ぐいぐいと引っ張られた年末。


放り出された場所に身を委ねて、

味わい尽くすことを、

自分に課したいと思います。



年始は、チベット仏教の本を読みこんでいました。

 なかなか判然としなかったことがとてもすっきりしたのが、

正木晃さんの「 性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光 」 























チベット仏教の表になりにくい歴史の部分に、

一人の霊験あらたかな高僧「ドルジェ・タク」の歴史を紐解きながら、

 光を当てていく一冊。



読み物としてもとても読みやすく、

物語の要素がとても強いので、すいすいと読めました。


ゲルク派、ニンマ派、カギュ派、サキャ派、

それぞれをざっくりと理解していましたが、

歴史の渦に添って、どのような流れであったか、

また秘密集会タントラとはそもそもなんなのか等々、

とても明瞭に理解ができました。


チベットの学びを、今年も深めていくことができれば・・。


そんな風に思う2011年。


日常を、

いかにして非日常で洗い清めるか。



すべての一瞬一瞬を、

静謐な空気で見つめることができるか。



怠惰に命の灯を燃やしてしまう私を、

いかに慈しむことができるか。



綴りながら、

感じながら、

今年は発露していきたいと思います。


よきご縁を頂くことができますように。

そして、皆々様に、よりよいご縁が広がっていきますように。

祈りを込めて。


 
     



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