2011年1月11日火曜日

『 日常を非日常で洗うということ 』


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いうまでもなく、究極的には、

「他人」など存在しません。

私たちが会っているのは常に、

「自分自身」なのですから。


世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え

エックハルト・トール著
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photo by App [Backgrounds]









明けましておめでとうございます。


2011年も11日を過ぎました。


「ケ」と「ハレ」の区切りを上手く付けることで、

人は昔から日常に堆積する「垢」を、

非日常に身を投じることで、払拭してきました。



常に、不変と流転が入り混じりながら、

時間という軸を滑らかに移動している日々の中に、

いかにして「ケ」と「ハレ」を見出していくか。


それらを味わい尽くすことができるか。


そんなことを感じる新年です。



個人的に、

年末で、日常を繋ぎとめていた環境がガラリと変わりました。

今は空白、

どこまでも自由に足をのばせる冬の草原に、

一人立っているような感覚です。


一連の変化はあまりに急で、

今も自我がその変化に付いていけていない部分があります。


自分の誕生日であるグレゴリオ暦11月17日に、

「天命は何か」とふいに喉元に突きつけられ、


その約10日後、

偶然にもマヤ暦での誕生日に「離れる」という流れが決定し、

12月の晦日を迎えるまでに、

とりあえずの荷物をまとめて旅立つ、という、

火急を要する変化に飲まれました。


その時はまるで、エリザベス・キューブラーロスの「死の五段階」のように、

さまざまな感情が入り乱れ、

けれど魂の奥底で、

「助かった」

という響きが、木霊していたのも確かでした。


今回の出来事で、つくづくと感じたことがあります。


「離れることの美しさ」


この世には「離れることの美しさ」があり、

それはどこまでも完全で完璧な流れであり、

天からのギフトであり、

どのような形で立ち現われても、

すべからく、本質は美しい。


そのことに、自我を超えて受容し、享受し、

委ねることができるか。


そんなことを、学んだ出来事でした。



私の成すべきことは何か。

何を成すために生まれてきたのか。


天命とも使命とも呼べるようなものに、

ぐいぐいと引っ張られた年末。


放り出された場所に身を委ねて、

味わい尽くすことを、

自分に課したいと思います。



年始は、チベット仏教の本を読みこんでいました。

 なかなか判然としなかったことがとてもすっきりしたのが、

正木晃さんの「 性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光 」 























チベット仏教の表になりにくい歴史の部分に、

一人の霊験あらたかな高僧「ドルジェ・タク」の歴史を紐解きながら、

 光を当てていく一冊。



読み物としてもとても読みやすく、

物語の要素がとても強いので、すいすいと読めました。


ゲルク派、ニンマ派、カギュ派、サキャ派、

それぞれをざっくりと理解していましたが、

歴史の渦に添って、どのような流れであったか、

また秘密集会タントラとはそもそもなんなのか等々、

とても明瞭に理解ができました。


チベットの学びを、今年も深めていくことができれば・・。


そんな風に思う2011年。


日常を、

いかにして非日常で洗い清めるか。



すべての一瞬一瞬を、

静謐な空気で見つめることができるか。



怠惰に命の灯を燃やしてしまう私を、

いかに慈しむことができるか。



綴りながら、

感じながら、

今年は発露していきたいと思います。


よきご縁を頂くことができますように。

そして、皆々様に、よりよいご縁が広がっていきますように。

祈りを込めて。


 
     



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