チベットの諺にあるとおりだ。
「グルは火のようなものだ。近づきすぎれば火傷をするし、遠すぎては暖まれない。」
このような求愛の情をもつのは弟子のほうだ。師を求めて近づきすぎ、火傷をする。すると何もかも捨てて逃げ出したくなる。
しかし、結局二人の関係は非常に充実した堅実なものとなってくる。
あなたにはグルに近づきたい欲求も、彼から逃げ出したい欲求も、自分自身のゲームにすぎないことがわかってくる。それは現実の状況とは何の関係もない、あなた自身の妄想にすぎないのだ。
グル、あるいは精神の友は、
つねにそこに燃えている。
それは消えることのない生命の火だ。
彼とゲームを演じるかいなかは、
あなたの選択にかかっている。
チョギャム・トゥルンパ著
「タントラへの道〜精神の物質主義を断ち切って」
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今日はチベットハートヨガのレッスンでした。
シリーズ5「グルの至福」
アーサナがメインのレッスンだったので、座学は少しでしたが、
「師」とは何か、
「師」に委ねるとは何か、
「師」から学ぶとはどういうことか、
その問いの本質として、「自我」をいかに手放すか、というところに触れていきます。
チベットの偉大な聖人の一人であり、偉大なヨーガ行者であったミラレパは、
母が願う復讐を実践して殺人を犯し、村の作物を枯らすなど罪を重ね、
そのような己から脱したいと、切実なる覚悟を持って、
聖人マルパに弟子入りを懇願し、教えを乞います。
マルパはミラレパに、不条理な難題を言い与えます。
家を建てることを命じ、建て終わるとその家を壊せと何度も繰り返し命じます。
家を建てる為に使用した石は、「景観を損ねないよう」元の位置に戻せとのこと。
教えを受ける事だけを支えにし、幾度も家を建てては壊し、
最後には9階建ての塔を、骨身を削って建てます。
しかしマルパは、
「たかが9階建ての塔を建てたぐらいで何を言う。
教えが欲しいならもっと献上品を持ってこい」と冷酷に言い放ちます。
日夜、家を建てる為だけに勤しんだミラレパには、差し出すものなど何もありません。
見かねたマルパの妻が、そっと大麦と反物をミラレパに差し出し、
ミラレパはその品物をマルパに献上品として差し出しました。
けれどもマルパは、その品に即座に気づき、
「これはもともと私のものだ!私を騙そうというのか大嘘つきめ!」と放り出しました。
ミラレパは絶望し、自殺を図り、今にも命を絶とうとした瞬間、マルパが現れ、
「お前には教えを受け入れる準備がやっとできた」と告げた、
という逸話が伝えられています。
師であるマルパも、
その師であるナーローパから同じように厳しい目にあっていたそうです。
先生と思う方から何かを学ぶとき、
自分自身の内側に、こんな「自我」の声が広がりませんか。
「この先生に気に入られたい」
「もっと私だけに教えてほしい」
恋に似た自我の声は、
「一生懸命」な姿勢へと押し進め、
自分の懸命な姿を認めてくれないとき、落胆と怒りに変化していきます。
そして、また新たな師を見つける旅に、
自分の努力を認め、自分だけに注意を注いでくれる師を探す旅を繰り返している…
あぁ、私はまさにそうであったし、今もそうではないのかと、自分に問います。
先生と向き合うとき、
自分の内側に少しでも「認めてほしい」という声が響いていないか、
今日のレッスンを終えて、改めて未熟である自分を見つけて身が縮む思いがします。
「わたし」という無意識の枠組みを手放さない限り、
本当の意味で、「学び」を得たということにはならないのだなぁと、
改めて気づかされた日です。
その「わたし」であるという自我を手放すことの難しさたるや。
肉体に厳しく試練を課すとき、
自我の声は小さく遠くなり、
「わたし」であるということすらも超える瞬間が訪れやすくなります。
走ったり、
山に登ったり、
何度も単調な作業を繰り返すことで、その瞬間を増やすことで、
「わたし」であることを手放すことを命じていたのだなと、
ミラレパの逸話から感じます。
私は、何を学ぼうとしているのか。
あらゆるものに、「認めてほしい」ということを求めていないか。
内側に、問いかけたいと思います。
◇ 美しい波紋が広がりますように・・・感謝をこめてやんわりクリック◇
◆チベット玉樹大地震の被災者の方々に、平穏な日々がもたらされますように◆
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