魂(たましい)によって統べられない
手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、
一つの霊がこれを統べるのでなくて、
どうして単なる線の集合が、
音と意味とを有(も)つことが出来ようか。
中島敦著「文字禍」
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もうすぐ公開の映画、「ザ・ウォーカー」が楽しみです。
人類に残された「最後の一冊の本」を巡る物語。
幼いころから少林寺拳法に触れていたので、
ブルース・リーのお弟子のダン・イノサント氏が
デンゼル・ワシントン氏のトレーニングにつき、
「美しい立ち回り」と監督が絶賛するのをぜひ見たいと思いますし、
製作陣も興味のある方々が集っています。
けれども、一番心を奪われたのは、
「 運べ 西へ その本を - 」 というキャッチコピー。
なぜ私は「本」がこれほど好きなのか。
しかも電子書籍ではなく、
紙に印刷し、装丁を施し、質量と重量のある「本」でなければならないのか。
この映画の予告編を見ているときにふと、ひらめいたものがありました。
「本」は、とても密教に似ている。
教えを乞い、門戸を叩き、灌頂を受け、学びを得る為の必要なステップは、
「読む」ことをおのずから決断しなくては、何も始まらないこと、
「本」を手にとり、1ページ1ページ、本の質量を感じながら読む作業、
それらととても近しく感じます。
また「本」が書かれている事柄は、
書き手のひらめきや霊性、感覚など、
形にないものを、「文字」として記していく作業であり。
それはまるで、
魂、もしくは意識、
そういった形のないものが宿る、この「身体」のようではありませんか。
まさにその問いを投げかける物語が、中島敦の手によって紡がれています。
「文字禍」
この短い短編は、とても奥深く、
「文字」を書き記すことの意味、そこに宿る「意図」とは何かを問うています。
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そのうちに、おかしな事が起った。
一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文字が解体して、
意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。
単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、
どうしても解らなくなって来る。
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ご経験ありませんか。
私は、小学校の頃などは、
「行」というシンプルなものから、
「亠」なべぶたの部首がつく漢字などがとくに、
ふわふわと散らばり、綺麗に四方に広がっていき、
なぜそれを今まで一つのまとまりと見えていたのか、
もうどうしようもなくなるときがありました。
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それと同じような現象が、
文字以外のあらゆるものについても起るようになった。
彼が一軒の家をじっと見ている中(うち)に、
その家は、彼の眼と頭の中で、
木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。
人間の身体を見ても、その通り。
みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。
どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。
眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、
すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
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おぉ、如何にいわんや!
この状況は、内なる振動がゆっくりとゆっくりと「止」に向かい、
たとえば赤血球の流れる音や、
自分の拍動の震えや、
一瞬という感覚が何倍も長くなり、
それは「ゾーン」と呼ばれるような色合いの世界でもあり、
ここから一気に振動数を上げ、
日常のさらに上、
無意識に「私である」として留め、ブレーキをかけている振動数を、
より高め、はるかに超えていくことが、
今多く唱えられているアセンション、次元上昇などの意味するところとつながっていく・・
そんなふうに、感じています。
本のデジタル化は、今の変換期に必要な流れなのかもしれません。
「文字」の持つ、エネルギーや意図を純粋にすくい取る作業のように感じます。
ただ、この重い質量の肉体を持つ私たちは、
得てして遠回りとも思えるような道のり・・瞑想や修行を通して、
肉体のチャンネルを変え、開き、
それらの純粋な響きに耳を澄ますという作業が必要になります。
なぜなら、この「肉体」をもって、「今ここ」に、在るからです。
デジタル書籍は、スピード感があります。
「読む」のではなく、「スキャン」のイメージです。
けれども、一日何度も真言を唱える作業に、霊性を見出さない人はいません。
「書き記し」たものが質量を伴って「在る」ということ。
本の存在自体が、とてもとても、ひとつの答えのように思えます。
今日、東京は冷たい雨。
本当は、「雨」から、「水」というエネルギーをチベットの書物を通して、
皆さまとともに紐解いてゆこうと思っていたのですが。
どうしたことか、「本」から「文字」についてを長く書き記してしまいました。
これも、「文字に宿る霊」の、導きなのかもしれません。
文字に宿る、というもので最後にもうひとつ。
夢枕獏さんの最初の「陰陽師」の中の短編、「梔子の女」。
これは、クチナシの花と「口無し」をかけています。
このお話も、「文字に宿る魂」の物語、般若心経がテーマです。
シンプルですが、同じ問いを語りかけてくれます。
一文字一文字に宿る魂が合わさってひとつの本となり、
その扉を開いたものに、深々と語りかけてくる。
60兆個もの細胞からなる、魂をもった私たちは、
どのような言葉を、
どんなふうにして、
どなたに、語りかけていきましょうか。
願わくば、その物語が、どうぞ美しいものでありますように。
そして私たちが、
過去の叡智を今在らんものとして、ともに歩んでいけますように。
◇ 美しい波紋が広がりますように・・・感謝をこめて
◆チベット玉樹大地震の被災者の方々に、平穏な日々がもたらされますように◆
日本赤十字:中国青海省地震被害の救援金受付
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