2011年2月7日月曜日

『 光琳の非情なる紅白梅 』









 尾形光琳 「 紅白梅流水図屏風 」




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芸術は根源的な矛盾を秘めています。

その緊張した統合のうえに、

強烈な表情を輝かせるのです。

矛盾した要素の対立は芸術の本質であり、

根本要素です。


『日本の伝統』岡本太郎著

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自由が丘までぶらりと歩く裏道に、

美しい枝ぶりの紅白の梅を植えていらっしゃるお宅があります。


小ぶりながらも、門を覆う松のように、

赤い梅の枝が美しく伸び、

細い細い枝先から溢れんばかりの梅の花が

ほろりほろりと滴るように咲き始めています。



吹き流し、と呼ばれる独特の形を保たれた紅梅は、

何とも艶っぽく、桜とは異なるフェロモンを湛えていて、

日に日に紅い花を増やしていく姿が何とも麗しいのです。




吹き流し、とは、盆栽の用語です。


盆栽の世界は一種独特で、

その味わい深い用語を読むだけで、

良い抹茶を頂いたような心持ちになります。




盆栽は、

植物をたおやかな生物という以上に、

植物の持つ動的な本能を究極にまで研ぎ澄まし、

人がそこに介入して格闘する、というような、

なんとも言えない官能的な世界が広がっているように感じます。




自然が織りなす、幾何学的な模様や流線形、渦。



これらを< 無作為の作為 > として形作ることに、

人は果てしない妙味を感じるのではないでしょうか。



その究極的な< 無作為の作為 >の世界の一つである、日本画。



岡本太郎氏の「日本の伝統」という著作に、

尾形光琳の描く、「紅白梅流水図屏風」と「燕子花図屏風」を、

光琳の魔性(デーモニッシュ)な気配を湛えた、

圧倒的な作品である、と語っています。




自然を完璧に描ききり、

かつ自然に堕落することなく、

どこまでも空間的でありながら、

圧倒的に真空の世界である。



芸術家として、己以上の己となる、

「非情の場」ともいうべき境地に立って描かれた、

「非情の作品」である。




岡本太郎氏は、

幼いころに、「爆発だ!」と言っておられたアナーキーなお姿しか存じ上げず、

この著書を拝読し、なんと心地よい湿度で文章を紡がれる方なのだろう・・と

とても驚きました。




この「日本の伝統」では、

光琳をどこまでもマクロに見つめて、

裏も表も、光琳の狡さも素晴らしさも、

あまねく引っ張り出して舐めつくさんとするかのようです。



街の景色の中で、ふと目にする紅白の梅。


尾形光琳のまなざしや、

岡本太郎のまなざしや、

鮮やかな緑色のメジロのまなざしや、

ただ何も持たずに見つめる自分のまなざしを通して、


幾重にも、

幾重にも、

梅の命そのものを味わうことができます。




紅白の梅を、

命をかけて画家たちが描いたことを、

知ってか知らずか。



今年も麗しく、梅が咲きます。




皆さまのおそばにも、必ずやそんな梅が、

人知れず咲いているかも知れません。



非情なまでに、美しく咲く梅と出逢われる、

香り立つ春でありますように。









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