2011年4月24日日曜日

-- ジャッジメント --


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すべては真実である


すべては真実ではない


すべては真実であり、かつ真実ではない


すべては真実であるのではなく、


かつ真実ではないのでもない


これは、仏陀が(弟子たちの資質に)
合わせて説かれた教えである


ダライラマ著/中論講義


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今日は、今年最初のアゲハ蝶を見ました。


家の窓から。


玄関を出て。


外出先で。




アゲハ蝶を見るたびに、エリザベス・キューブラー・ロスを思い出します。


「人生は廻る輪のように」の中での、


死者の魂としての蝶のエピソードを思い出します。








「一切は空である」というチベット仏教の教えを、


現実問題に当てはめるとき、


どのように自分自身を変化させればよいでしょうか。






「空である」ということを本質として掴めていないが故に、


問題を直視しないことにはならないか、という疑問が生じていました。






僧侶である父に問うと、








「悟るとは、問題を超越するということではない。


 今生きる人間として問題に直面し、


 悩み苦しむそ自分自身をそのまま、そのまま受け入れる。


 悟るとは、一回りして「普通の人」になることだ」










という答えが返ってきました。


苦悩し、怒り、悲しんでもよい、ということです。


これはどういうことでしょうか。


問題そのものを超越することではない、とも父は答えます。






「ホ・オポノポノ」の中にも興味深い記述が有ります。


(「空」そのものを「何もない」としている部分は本質とずれていますが)






「 私たちが人生で経験するすべての問題や困難は、


  私たちの記憶が再生されることによって起きている 」








それゆえに、潜在意識に蓄積された「古い記憶」、過去世にまでも及ぶような


無意識領域の「古い記憶」をクリーニングする必要がある、と説明します。








父の言う「受け入れる」とは何か。


「古い記憶」とは何か。






私が10代の頃より学んでいる、


TA】(Transactional Analysis)心理療法の中に、


「準拠枠」と「再定義」いう理論があります。








色眼鏡という言葉にも表されるような、


自分自身が学び、インプットしてきた様々な「価値観」や「判断基準」が


幾重にもカーテンのように、バームクーヘンのように自分を包んでいます。


これをTAでは準拠枠(Frame of reference)と呼びます。






「出来事」に対峙すると、自分が理解しやすいように、


「出来事」をあるがままではなく、


脚色や一部をディスカウントして受け止めることを、「再定義」と呼びます。


同じ出来事も、人それぞれ受けとめ方が異なるのもそのためです。








それそのものを再定義せず受けとめる。




「問題」に直面した自分自身そのものを、丸ごと受けとめる。






問題に直面した時、


もしくは一瞬一瞬の全てにおいて、


私たちは、「過去の記憶」から作り上げた「準拠枠」という色眼鏡で、


「ジャッジメント」している。




そのジャッジメントを「再定義」というのだと、はたと結びつきました。


その刹那刹那に、意識、無意識に行われる「ジャッジメント」が問題なのではないか。




ホ・オポノポノは、その潜在意識で行われる、


一瞬一瞬の古い記憶による「ジャッジメント」を行わないよう、


比較するための古い記憶をクリーニングする、というアプローチなのだと


分かりました。






では、「空」とはなんでしょうか。


問題そのものが「空」である、


超越すれば苦しみも無い、というようなことなのでしょうか。


本当に?


空であると理解すれば、原発の問題は無くなるのでしょうか。


放射能汚染は無毒になるのでしょうか。








この疑問と同じ疑問が、


ナーガールジュナ(龍樹)の「中論」に記載されていました。


ナーガールジュナの説く空の見解を理解できず、反論者たちは批判します。





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もし一切が空ならば


生成もなく、消滅もない


四つの聖なる真理(四聖諦)もすべて


あなた方(空を説く竜樹たち)は存在しないことになる


ダライラマ著/中論講義 P181)










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問題そのものが空というのか、


では克服する苦しみもなく、


悟りを得る仏陀も存在しないということか、と問う質問が続きます。


世俗のレベルにおいても問題も何も存在しないことになってしまうではないか、と。


因果の法則はどこへ行ったのだと。




ナーガールジュナは答えます。











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それに答えて我らは言う


あなた方は空の目的、空


空の意味を理解していないのでこのような批判をしている









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ダライラマさまは述べます。


「空である」と言われた時には、「あるのだ」と理解しなければなりません。


なぜならば「空である」とは、「その自性が空である」という意味なのであり、


「空である」と言われたなら、「何かが存在する」と理解すべきなのです。








父からも昔、「空」とは何も無い、虚無ということではない、


「ない」という状態が「ある」ことなのだという話を聴かされました。






「空」とは、


すべてのものは他に依存して存在しているから、その本質は空であると、


ダライラマさまは続けます。






物事の起こりは縁起により生じる、


しかしそれは本来的に不変のものであるということはない、




他に依存して生じたものは


独立して存在しているのではない


すべてのものは独立した存在ではないので


自我があるわけではない (14章第348偈)







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18:何でも縁起しているものは

  それは空であると説く

  それは(他に)依存して仮設されたものなので

  それは中の道である

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19:故に、縁起しない現象は

  何ひとつ存在していない

  故に、空でない現象は
 
  何一つ存在していない

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「苦しみは、

それ自体の力で独立して存在しているのではなく、

因と条件に依存して生じているものなので、

無常の本質を持つものであり、

無明に影響されて成した行いの結果であることを理由として、

無常なるものはすべて苦しみである、と釈尊は説かれているのです。」(中論講義P209)




「仏教の教えにある執着を滅する、怒りをなくすべきであると説かれているのは、

 必要な条件を得てはいけない、障害を取り除いてはいけない、という意味ではない」




「障害となるもの、自分に害を及ぼしてくる敵がいる時は、

 敵を敵と認識すること自体に何も問題はありません。

 そして、その敵が与えてくる害が10%程度なら10%の害だと正しく捉えて、

 10%の害にふさわしい対処をすれば良いのです。

 ところが、概念作用によって、その害を20%、30%、さらには100%にまで

 膨らませてしまい、その誇張を土台として対処しようとすると、当然行き過ぎになる」



「怒りを敵と見なすことは必要だが、嫌悪してはならない」



「実際のもののありようを実際以上に誇張して捉えるのは邪見であり、

 同様に、あるものをないと間違って捉えることも邪見である」



「ものの実際のありようをあるがままに正しく見て、それによって、

 なくべきものを滅し、得るべきものを得るべきだ」




ここまで読んで、ようやく心の霧が少し晴れたような思いです。


「問題」そのものをないものとする、ということもまた「邪見」であると。


そして、その「問題」自体を誇張せず、

TA理論でいう「準拠枠」で「再定義」して誇張もディスカウントもせず、

あるがままに正しく見、対処をする。



問題を見いだすことは「空」の教えから逸脱していないということが分かり、

少し胸を撫で下ろしています。

その問題を誇張しそこに囚われることと別であると。



大切なのは、

その「問題」は、

認識する「私」やその他の諸々の事象、

そこに行き着くまでの「因果」によって生じており、

「不朽不変」の自立したものではない、ということ。




変化の可能性を否定せず、

自分の「命」を大切にする、ということ。



ここでようやく、


「これもまた過ぎ去る」


という言葉が力を発揮します。



問題の存在を認識し、

その重要性を取り上げ、

変化の可能性を認め、

その問題に対処できる自分の能力を見いだす。




「空」ということを、

もっともっと、細胞のひとつひとつから腑に落ちる日がくるよう、

精進したいと思います。




今、生じている苦しみや悲しみを生み出す多くの問題が、

すばやく、すばやく、

良い結果へと変容しますように。











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