尾形光琳 「 紅白梅流水図屏風 」
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芸術は根源的な矛盾を秘めています。
その緊張した統合のうえに、
強烈な表情を輝かせるのです。
矛盾した要素の対立は芸術の本質であり、
根本要素です。
『日本の伝統』岡本太郎著
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自由が丘までぶらりと歩く裏道に、
美しい枝ぶりの紅白の梅を植えていらっしゃるお宅があります。
小ぶりながらも、門を覆う松のように、
赤い梅の枝が美しく伸び、
細い細い枝先から溢れんばかりの梅の花が
ほろりほろりと滴るように咲き始めています。
吹き流し、と呼ばれる独特の形を保たれた紅梅は、
何とも艶っぽく、桜とは異なるフェロモンを湛えていて、
日に日に紅い花を増やしていく姿が何とも麗しいのです。
吹き流し、とは、盆栽の用語です。
盆栽の世界は一種独特で、
その味わい深い用語を読むだけで、
良い抹茶を頂いたような心持ちになります。
盆栽は、
植物をたおやかな生物という以上に、
植物の持つ動的な本能を究極にまで研ぎ澄まし、
人がそこに介入して格闘する、というような、
なんとも言えない官能的な世界が広がっているように感じます。
自然が織りなす、幾何学的な模様や流線形、渦。
これらを< 無作為の作為 > として形作ることに、
人は果てしない妙味を感じるのではないでしょうか。
その究極的な< 無作為の作為 >の世界の一つである、日本画。
岡本太郎氏の「日本の伝統」という著作に、
尾形光琳の描く、「紅白梅流水図屏風」と「燕子花図屏風」を、
光琳の魔性(デーモニッシュ)な気配を湛えた、
圧倒的な作品である、と語っています。
自然を完璧に描ききり、
かつ自然に堕落することなく、
どこまでも空間的でありながら、
圧倒的に真空の世界である。
芸術家として、己以上の己となる、
「非情の場」ともいうべき境地に立って描かれた、
「非情の作品」である。
岡本太郎氏は、
幼いころに、「爆発だ!」と言っておられたアナーキーなお姿しか存じ上げず、
この著書を拝読し、なんと心地よい湿度で文章を紡がれる方なのだろう・・と
とても驚きました。
この「日本の伝統」では、
光琳をどこまでもマクロに見つめて、
裏も表も、光琳の狡さも素晴らしさも、
あまねく引っ張り出して舐めつくさんとするかのようです。
街の景色の中で、ふと目にする紅白の梅。
尾形光琳のまなざしや、
岡本太郎のまなざしや、
鮮やかな緑色のメジロのまなざしや、
ただ何も持たずに見つめる自分のまなざしを通して、
幾重にも、
幾重にも、
梅の命そのものを味わうことができます。
紅白の梅を、
命をかけて画家たちが描いたことを、
知ってか知らずか。
今年も麗しく、梅が咲きます。
皆さまのおそばにも、必ずやそんな梅が、
人知れず咲いているかも知れません。
非情なまでに、美しく咲く梅と出逢われる、
香り立つ春でありますように。
◇ 美しい波紋が広がりますように・・感謝をこめて
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