2010年6月27日日曜日
〜 風に抗わず 〜
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自分はここにいて、空を観ているというのではなく、
何もない空間と自分自身が一つになってしまうのである。
自分の存在は何もない空間そのものだと感じる。
大空の無限の次元と一体になるのである
ナムカイ・ノルブ著 「チベット密教の瞑想法」
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photo by App [Backgrounds]
少し間が空いてしまいました。
いろいろと小さなことを積み重ね、毎日季節が変化する気配を感じます。
やはり、ささやかなことでも書き記すことで、
それがやがて薄く薄く積み重なり、
けれどもその地層は重ねるごとに、透明度を増し、
かざせば空の色も、注がれる光も、何も遮らずに向こうを見通せるような、
そのようなものを重ねて行きたいと思います。
昨夜は満月であり、地球による部分月食の日でありましたが、
雨模様で観ることができずじまい。
今日は夕刻、屋上に上がり、
遮るもののない空を見つめて座ってみました。
ゾクチェンの瞑想法にも、オーストラリアのアボリジニーに伝わる瞑想法にも、
青空を見つめる、という方法があります。
そんなことをぼんやり思いながら、
空を見るとも見ずに、見ます。
ちらちらと光が、右往左往するのをみ、
(昔、空におたまじゃくしがいると思っていました)
梅雨の低気圧の低い雲がたゆたい、
切れ間から青空がのぞき、
右から鱗状の雲が現れ、
目のようなものに見える雲が現れるのを見、
静かに目をつむります。
すぐそばの幹線道路の音、
鳥の声、
自転車のブレーキ、
近くの線路を通る電車の音、
聴くとはなしに聴きます。
なんだか、自分の呼吸が邪魔になってき、
深めの腹式呼吸に変えるも、
お腹を動かす作用が邪魔になってき、
楽に楽に、呼吸を呼吸とも思わず呼吸にならないか、などととらわれていきます。
そのとき、風がこちらに向かって来、
風が私の体温を奪う、と感じた瞬間。
風に「抗う」、「わたし」というものに気付き、
風が吹き付けるたび、
その風はこの身体を通り抜け、
風に抗う「身体」「わたし」を一緒に溶かしてゆこうと思います。
風と「身体」の境界線を感じている「わたし」を、
なんとかしたいと思います。
呼吸は、
最初の肺に対して横に広がる運動から、
次の腹部を前後に広げる運動もうっとうしく、
あぁそうだったと思い出したように、
背骨を沿わせて円を描くような運動に変えていきます。
それでも呼吸がうっとうしく、
何回かにいっぺんは呼吸を止め、
その静けさに漂います。
呼吸を止めることの肉体的な苦、
けれどもその間のなんともいえない楽、
幼い頃、呼吸をとめれば心臓も止まると思い、
何度も息を止めながら心臓を押さえてはひどく不思議に思う自分を浮かべていました。
まだ、風が私の熱を奪うと信じてやまない自分に気付き、
風の本質が何であるかを観えていない自分がいます。
この殻を脱ぎ、
そしてこの殻(身体)を隅々までまとい、
ただ「在る」ということに、行き着きたいと思う十六夜の夜です。
◇ 美しい波紋が広がりますように・・感謝をこめてやんわりクリック◇
ラベル:
瞑想、その静謐なる運動の先に
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